昭和54年05月16日 朝の御理解



 御理解 第47節
 「祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならぬ。」

 薬れ祈れにするからおかげにならんと、言い切っておられますね。断言しておられます。これはどう言う事かと言うと、なるほど皆んなお薬を飲んでも医者にかかるでも、先ずお取次を頂いてその後薬でも、ちゃんと神様にお供えをしてお下がりを頂くと言う様な、ふうがお道の信者さんにはあります。先ずは御取り次ぎを頂いたか、と言う事になります。そう言う生き方になればおかげも早いが、とこう仰っておられますが、確かにおかげも早いでしょう。けれどもこれはどう言う事かと言うと。
 薬れ祈れにするからおかげにならん、とこう断言しておられますから、そう言う事ばかりではない事を感じます。例えばなら合楽にご縁頂いておる人でも、御取り次ぎ頂かずにお薬を飲んだり、医者にかかったりした人もありましょうけれども、それでもそれでおかげ受けてるですね。おかげにならん。とこう断言しておられますけれども、おかげをうけておられます。もちろん信心のない方なんかはお取り次ぎを頂くとか。神様を知らない人達は、やはり医学万能であり。
 もうどうかあると言えばすぐお薬と言う事になる訳ですけれども、やっぱりおかげを受けておる。言わばおかげと言うか病気がなおっておる。頭が痛いのがノーシンを飲んだら頭痛がせんようになると言う様にですね。効くとか効かないとかと。よくなるとかよくならないと言う事ではだからないと思うです。薬れ祈れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならん。だからおかげになると言う事の生き方とは、どう言う事なんだろう。まぁこの御教えの本当に一つ何と言うですかんね。
 余韻をもったしかも難しいここが分かれば、金光教の信心は言うなら、体得したとさえ思えれる様な感じのする御教えですね。「祈れ、薬れにすればおかげも早いが薬れ、祈れにするからおかげにならん」と言う事は、どこまでも神様を御中心に、申し上げた信心と言う事なんです。どんな場合であっても神様を中心、言うなら神様本意の信心。大体皆が一生懸命信心させてもらって、何でもお取り次ぎを頂いて。
 昨日富久信会でしたが宮崎から、佐田さん、渡辺さん、佐々木さん、もう一人初めての方が四名で参って来ておりましたが、渡辺さん大きな商売を女の方ですけれども。会社の女社長さんなんです。まぁ最近様々な難儀問題を抱えておられます。もう思うただけでも、もし信心がなかったら、もうそれこそ頭が破裂してしまうだろうと思う様に、いっぱい問題を持っておられる。もう毎日お取り次ぎを頂かなければおられない。
 自分の心で自分の頭で裁こうとしたらもう裁き様がない。毎日お取り次ぎを願われる。とにかく親先生の声を聞いただけで、その言うならば今日もどうぞ神様貴方任せの生き方にならせて下さい。と言う心が生まれて来る。もう親先生のお声を頂くと言うだけで、おかげを頂いておると言う発表をしておりました。だからいうならば祈れ薬れである。先ず朝お取り次ぎを頂かなければ。
 一日のいろんな問題をお届けをされる。だからいかにもそれは、祈れ薬れの様である。神様中心の様であるね。神様中心とはそう言う事ではないようです。言うならば毎日お取り次ぎを頂いて、一事が万事にね、もうさぁ右にしましょうか、左にしましょうかと言う事までお伺いをしとります。と言う事は私はそれがいうならば祈れ薬れではないと思うのです。そう言う信心が段々身についてくる有り難い。
 昨日、朝の四時の御祈念の時に頂いたと言う、梶原先生がこう言う事を頂いているんです。『見事に説き明かされた、その後に雪はとける。』と言う言葉を頂いとる。『見事に説き明かされた、その後に雪はとける。』と一寸難しいですね。昨日椛目の妹が頂いたと言う『難儀も勇気百倍』、その難儀もと言うのが非常に印象的であったと言う。『難儀も勇気百倍』と言う事は、難儀と感じない事もやっぱり勇気百倍。同時に普通の人なら難儀と言うたら、それで挫折する様な人も多いのですけれども。
 難儀も勇気百倍。何でもないおかげを頂いておる時もやはり勇気百倍。難儀だけが勇気百倍ではないね、そう言う様な心の状態が信心によって開けて来る。神様中心にと言う事は、御取次ぎを頂きお願いをしておるから、神様中心と言う事ではないね。いよいよ神様を信じておる。一切神愛だと分かっておる。だからお礼もいえるしいつも生き生きとした、ま勇気百倍と言うのはね、心が生き生きとしておると言う事だと思うです。言うならば弾んで来る心なのです。
 どこからか湧いてくる元気な心なんです。ヤルゾ言う心なんです。今日も一日どうぞ合楽理念の実験者として、または実証者としてのおかげが頂けます様にと、そう言う祈りが絶えず自分の心の中にあって、一切をおかげにせずにはおかん。ためにはどういう事あっても、合楽理念を以て実験せずにはおかん。そう言うものが、言うならば血に肉になって初めて神様を中心にと言う。
 おかげを頂かなければならんから、毎日お取次ぎ頂いとります。お願いをしとります、というのではない。だからそう言う信心が出来たら、言うならばおかげがある。いわゆる梶原先生が頂いておる、『その後に雪はとける』も、難儀な事はなくなる。と言う事だと思うのです。毎日お取次ぎを頂いて、成程これを聞いただけでも心が安らぐ、けども心の中には言うなら何と言うでしょうかね。言うならばおかげな事でいっぱいだと、そしておかげを頂いたら有り難い。
 思う様におかげを頂かない時には、おかげ頂っきらなかった。と言うのではなくて、もう勇気百倍。右と願っても左と願ってもね、それが願いが反対になって行っても、勿論これは神様が大きな力を下さろうとしておるんだな。どう言うおかげを下さろうと思うてござるやろうかと、思うたら難儀な中に、ニコッと笑えるものがある。だからそう言う難儀も、だから難儀ではない時も、何でもない時もいわゆる、生き生きとしたおかげの受け心と言うかものが頂けておる。と言うこと。
 難儀な時だけに勇気が出る。元気が出ると言うのでなくてね、もう一つそのいわゆる薬れ祈れにするからおかげにならん。そんならば祈れ薬れにすればおかげになると言う事が言えますでしょう。そのおかげになると言うおかげはどういうおかげかと言うともう医者もいらん、薬もいらん程しのおかげになると言う事にならなきゃならんのです。初めに仰っておられる『祈れ、薬れにすればおかげになる』とは仰ってはおらん。『祈れ、薬れにすればおかげも早いが』とこう仰っておられるね。
 だから只なら今からお薬を飲ませてもらいます。今から医者に手を握ってもらいます。と言う様なのは、只おかげが早いと言うだけ。おかげになると言うのではない。おかげになると言うのは、言うならその事を通して力になる。その事を通してお徳が受けられる。と言う事がいうならばおかげになる。おかげにならんの反対であるところのおかげになる。だからおかげになると言う事はね、病気が治ると言う事ではない。その事をもって徳が受けられる。と言う事である。
 そこんところが理解出来たらもう雪はとけると言うのです。一切合切神様な御働きの中にある。それを思うたら自分の生き生きとした心で、有り難い勿体無い、いわゆる神恩報謝の心と言うものは、何時も瑞々しいまでに頂けておる。そしてよしそこに何かあったといたしましてもね、それをすんなりと受けていく事が出来る。見事に解き明かされた時と言う事は、私は合楽理念だと思いましたね。
 合楽理念が見事に解き明かされた時に、また見事に説き明かされた時皆んなも見事にそれを受け止められた時、と言う事になるわけ。なら合楽理念を全くね、もう無条件と言うか無抵抗と言うかね、すんなりと頂き抜けたときに、言うならば本当の理解が出来たと言うこと。理解が出来たら今日の御理解じゃないけれども、もう恐らくは薬飲む事もなからなければ、医者に見てもらわんなんと言う事もない。
 いやむしろそれは例えばどうかあっても、意地で私は金光様の信心しとるけん、薬も飲まん、医者にもかからん、と言うのではなくてですね。いわゆるおかげになると言う、力になると言う事が信じれとるから、もう惜しくて勿体無いと言う事になる訳ですね。人に頼ったり物に頼ったり薬に頼ったり、医者に頼ったり。その前提としてはね言うならば、あぁもう頭が痛うして割れるごたるたまらん。ノーシンを一服飲もうそう言う時には神様にお願いをして飲もうというところからね。
 例えばんなら頭が痛くてもです。それによって力を下さろうとしておる何かを、分からせて下さろうとしておる。それをわかる事の方が尊い有り難い事。もう痛い事は痛いけれども、全然良くなる良くならないという事は問題じゃない事になる。一つの難儀な問題をいうなら人に頼ったり、すがったりして解決しておかげを頂いたとこう言うてもですね、只おすがりするのは神様だけだ、と言う生き方でね。なぜかとこれによって力を受けるんだと言う事が分かっているから、それが出来るんです。
 そう言う生き方がおかげになる。ここには、言うならば自分を中心にした生き方、言うならば薬れ祈れにするからおかげにならんと断言しておられる。その反対の事はだからおかげになる。そのおかげと言うのは治るとか、成就したと言うおかげではなくて、自分自身が徳を受けた力を受けた。言うならば合楽理念の言うならマスターが出来てね、それが自分の血肉になってしまっておるおかげを頂いた時にね、見事に解き明かされたものが、言わば頂き受けた時であります。
 その後に雪は融ける。もうその先には難儀はないと言う程しの、言うなら私は内容をもった御教えであるとこう思うのです。ただ簡単に頂きますと、何でも神様にお願いをして、御薬を飲む時には、飲む前に神様にお願いしたか、医者にかかるなら御取次ぎを頂いたかと言う、成程そう言う一つに形式的な信心が段々身について来ると言う事も有り難い。確かにそう言う信心で生まれて来るおかげと言うのは、只おかげが早いと言うだけです。そんならお取り次ぎも頂かなかったら、お願いもせずに医者にもかかった。
 けれども全快して帰って来た。おかげにならんじゃなくて、おかげになっとるです。神様に願わんでも、お取り次ぎ頂かんでも、だからそう言うおかげではないとおかげにならん。またおかげになると断言して言えれる。おかげとはその事をもって言わば力を受ける徳を受ける。また受けさせようとする神の働き、言うなら受けさせようとする、神愛の現れと分かった時に、もうそこにあるものは、その後に雪は融ける、と言う世界だけしかないのです、ね。
 だから最後の所がこの御理解の言うなら頂きどころだと思います。薬れ祈れにするからおかげにならんと。だから祈れ薬れにすればおかげになると言う事。ここで祈れと言うのはいつも神様が中心でおあしますと言う事。いやもう神様と私共とが一つの一体の働きが起こって来ると言う事。どういう働きかと言うと、これによって力を下さろうとしているんだな、と言うものが心の中に実感出来る。もう勿体のうして人にだん頼まれん、医者にだん掛られんと言う事になるのじゃないでしょうかね。
 だからこの四十七節が本当に頂けた時初めて、見事に解き明かされた時でもありましょう。その後に雪はとける心配だから、もう頭がこんがらがって、お取り次ぎ頂かなければスッキリしないから、と言う意味合いにおいてのお取り次ぎから、もう一つ向こうにある神様を、信じきっての生活ね。そこに徳を受けるチャンスがもう逃がしたら勿体無いと言う心が、心の中にいっぱいになつてくる。すがる事も頼る事も無い。ただ神様と一つの世界がある。言うならば合楽の世界がある。
 辛いとか、苦しいと言う世界から解脱した世界がある、その後に雪は融けるのである。だからもうぎりぎりの私は御教えだと思うんです。この四十七節はね、そこまでお互い信心を進めたい。おかげも早いがと言うおかげは御利益である。祈れ薬れにすればおかげになる。一番最後にある薬れ、祈れにすればおかげにならんと言う、その反対の事ね。だから祈れ薬れにすればおかげになると言う、おかげは御神徳を受ける、力を受けると言う事だと言う事です。
   どうぞ。